天才考

凡夫なwacが天才について考えるのはおこがましいんですが、昨日に続いて映画『アマデウス*1のヴォルフィーと、中島敦の短編『狐憑*2のシャクを俎上にあげての天才考の駄文を続けさせていただきます。
昨日の日記を書きながら、「あーでもないこーでもない」と何回も書き直しながら、「一フレーズ思いつくごとに神に感謝したり、読み返した日記を読み直す度に書き直したりするのは、やっぱり天才の業じゃあ無いよなぁ」等と考えつつも、シャクについて思いをはせ、そして読み返す『狐憑』。

舞台は遙か昔に湖上生活を営む一部族の村、シャクはその部族のごく平凡な青年。
とある事件が元で大きなショックを受けたシャクは「モノが憑いた」と言われるほどのモノ語りを語り出します。最初はその事件に関わりがあること、そして直に関わりのないことまでを。そこから先は『アマデウス』と同じく、大衆は彼を支持し、旧勢力は彼の排斥をたくらむのですが、ただ一点違うのは、シャクはこの能力を「ある日突然」授かり、いつの間にか失ってしまい、それ以後は凡庸に縮小再生産を続けることしかできなくなってしまったということ。
生まれついての天才でなく「憑きモノのおかげ」で天才になったシャクはヴォルフィーのように落ちぶれた後に支持してくれる人もなく、旧勢力に憧憬をもたれることもなく、あっという間にただの「役立たず」として属する共同体に煮られてしまいます。
救いのないこの物語に中島敦は淡々と言葉を続けます、この「シャク」が何者であるのかを。虚空からモノを紡ぐ業は、天才にしか許されないのだとして、その才を失ってしまった者は共同体の生贄として煮られるしかないのか!?特に救いもなくこの物語は終わります。

これが『アマデウス』ではさらに救いがなく、天才は生贄にもされずにうち捨てられ、その才の最後の輝きに浴しながらうち捨てた張本人は、その後それ以上の輝きを得ることもなく狂者として死んでいく。ヴォルフィーは自分の天才を自覚しながら、その才が他人を追いつめることには無自覚で(このあたりヴォルフィーとサリエリの関係は義経と頼朝の関係に似ているなあ)あるところがこの悲劇を救いのないものにしています。
ただシャクと違うのは、妻や息子、大衆オペラの劇団員、そして追いつめた張本人までもが彼を悼んでいるかのように描かれているところで、ヴォルフィー自身は実は幸せに死んでいったのかもしれません。ここのところが史実として死ぬまで才能を手放さなかったヴォルフィーと、物語中の神−作者/中島敦−に才能の儚さを体現する者として、偉大にして力無き自らの先人として描かれたシャクとの大きな相違点なのかもしれません。

…いかん、落ちがつかん。天才には本当にほど遠いなぁ…。

*1:アマデウス ― ディレクターズカット スペシャル・エディション [DVD]アマデウス― ディレクターズカット スペシャル・エディション』

*2:中島敦 (ちくま日本文学全集)ちくま日本文学全集 中島敦』等に収録